社員をとことん信じ切る。社員は評価し、管理する対象ではない。 困難な時代に、「生産性至上主義」をやめて成長を続ける、奇跡の運送会社「宮田運輸」を率いる宮田社長にラボ研究員で取材をしに行きました! その模様をお送りします。
■株式会社宮田運輸 代表取締役社長 宮田博史さん プロフィール
1970年大阪府生まれ。高校卒業後、祖父が創業した宮田運輸に入社。運転士、専務などを経て2012年社長に就任。
当時、売上高は25億円、経常利益は1000万円弱だったが、19年3月期は売上高40億円、経常利益1億5300万円に拡大。 社長就任当初、従業員に対する管理を強め、数字を上げようとしたことが引き金となり、死亡事故が発生。そこから方針を大転換。現在は、従業員をとことん信じる「心の経営」をモットーとしている。
その経営手法は、国内のみならず、中国、韓国などアジアの経営者からも注目されており毎年多くの企業が視察に訪れている。
2007年、稲森和夫氏が主宰する経営塾「盛和塾」に入塾。
2018年6月に行われた中国北京主催の盛和塾全国大会では、3200人もの経営者の前で講演した。
死亡事故をきっかけに同社がはじめた、トラックに子どもの絵をラッピングして、事故抑止につなげる仕組み
「こどもミュージアムプロジェクト」は、現在150社以上の企業が参加。
国内のみならず、中国、韓国など海外の官公庁、企業からも大きな注目を集めている。また、同社が行っている、
すべての従業員、社外の人誰もが参加できる経営会議「みらい会議」には、全国各地から数多くの人が参加している。
NHK「おはよう日本」、読売テレビ「ウェークアップ! ぷらす」などメディア出演多数。
■社長の仕事は社員を信じ切ること。それだけ。」(宮田 博文 著)
宮田氏:私ども運送会社なんですけども、トラックといいますと
「危ない」「怖い」っていうイメージがあって、関心はもたれませんが、
トラックの背面に子どもたちの思いを載せる、メッセージや絵をラッピングするアイデアを8年前に、
トラック1台から始めました。
「こどもミュージアムプロジェクト」と称して活動させていただいています。
その活動をなぜしようとしのか、そのきっかけ、プロセスと、私たちがどのように夢を描いているか。
をお話しできればと思います。
会社は、この4月で55期目の会社です。私の祖父が徳島の日本通運を定年退職したあとに、
7人の子どもを食べさせていかなくちゃいけない理由で始めた会社です。
事業所が13ありまして、東は福島県、西は福岡県にあります。従業員数が320名で車両台数が170台規模の会社です。
主に食品をメインに輸送させていただいていまして、国民の命とくらしを支えるというような、
そんな思いでやらせていただいています。
私、3人兄弟の長男として高槻市に生を受けまして、母親は本当に一生懸命働いて家計を支えて、
幼いときにお風呂がなかったものですから、二層式の洗濯機をお風呂がわりにしてたぐらい。
本当にそんな感じでした。
親父はトラックに乗っていましたから、親父の背中を見て育ちました。
トラックの車庫がありまして、仕事を終えて帰ってくるトラックは姿を見ないでも、
エンジン音だけで誰が帰ってきたかわかるぐらい、トラックがめちゃくちゃ好き。
もう、トラックが大好きで仕方がない。
みなさんも子どものときに夢があったと思うんですけど、私の夢はトラックの運転「手」と僕たちは言わないで、
運転「士」って表現してるんですけども、トラックの運転士になりたいと、
そういう一念で育ちまして、勉強はまったくしませんでした。
高校を卒業する前に、平成元年3月20日だったと思いますが、
憧れの株式会社宮田運輸に入社をさせていただいて、
社会に出させていただきました。18歳。当時、15名ほどの会社でした。
自分の夢がかなった喜びでいっぱいだったんですけども、実は、
売り上げの9割を占めていたお取引先の会社が業績不振になって別の会社に吸収合併されちゃった。
そういうタイミングだったんですね。
9割の仕事が明日からなくなってしまうかもしれない。
そんな状況のなか、自分の夢がかなった喜びでいっぱい、意気揚々と入社させていただきました。
でも、会社は窮地なんです。もう危機的な状況。
親父は「その頃を思い出すと本当に寝られなかった」といまだに言います。
そんな中、救いの手を差し伸べていただいたのが、とあるお酢メーカーさんです。
「宮田さん、忙しいから手伝ってくれないか」と。
親父は藁をもつかむ気持ちで、「行かせてください」と了承しました。
その当時、手積み・手降ろしで非常に重労働で、社内を見渡しても誰も行きたがらなかったんですね。
で、白羽の矢を立てていただいたのが私でした。親父から呼ばれて、「おまえが行ってこい」と。
で、親父から言われたのはたったひとつ、
「仕事は2度断るな。2度断ったら二度と言ってもらえなくなる。
いつもニコニコ受けてこい。信用・信頼を築いてこい」
そういったことを言われました。
「わかりました」ということで行かせていただいて、まだ車もろくに乗ったことない自分が、4トントラック、
平ボディのワイドのロングの大きいやつをあてがっていただいて、専属車として入れさせていただきました。
ヘルメットをかぶって、重たい安全靴をはいて、作業服を着て、
前を留めて、どんな仕事でもニコニコ「行かせてください」と。
当時、ドライバーはねじり鉢巻きに雪駄ばきっていうのがありましてね、
お客様から渡されてる伝票を「こんなもん、今から行けるかい!」って放ってたんですね。
ちょっと今では考えられない。放られた伝票を1枚ずつ拾い集めて、「行かせてください」と。
車もろくに乗ったことない18歳ですから高速道路が怖くて走れなくて、
全部下道。ナビもありませんからね。
でも、一生懸命やりつづけて、人の1.5倍ぐらい時間かかって、そこから365日・24時間働く日々がつづくんですが、
そうやって一生懸命やってますと、
「宮田さん、2台目、もう1台入れていいよ」って言われて、めちゃくちゃうれしかったんですよ。
「よかった。これで親父からほめられる」と。
でも、社内を見渡しても誰も行きたがらないんですね、長時間労働ですから。
で、中学1年の時の同級生を誘いました。
彼は自動販売機に詰めて回るお仕事を高校を卒業してやってました。
その会社は教育がしっかりしてますから、助手席にばかり乗って運転させてもらえないと。
で、「うち来たらすぐ乗れるから」って。
「すぐ乗れるんやったら、すぐ行くわ」言うて、単純ですけど来てくれました。
彼が今、専務取締役です。18歳で2人でやってますと、仕事か遊びかわからへんっていう。
ぜんぜん苦にならないですね。本当に自分の夢がかなった喜びでいっぱいで。
幼い頃、僕はトラックが大好きで、事務所に配車表が掲げてあって、誰がどこ行くかって暗記するのが得意で、
大阪から名古屋へ行くっていうと、だいたい夜中1時ぐらいに出発しますから、12時ぐらいに出ていって、
トラックの前を磨きながら従業員さんが出社してくるのを待って、「おっちゃん連れてって」って乗せてもらう。
これが楽しくて仕方ない。
で、帰ってくると母親から叱られるんです。平日行くもんですからね。
「あんた、仕事は遊びちゃうから、ついってったらあかん。学校行きなさい」
って言われるんですけど、もうトラックに乗りたくて仕方がない。
夜中、何度も何度も忍び足で抜け出して、助手席に乗せてもらって、その光景が忘れられない。
それぐらいトラックが好きで、やらせてもらってる仕事ですから、めちゃくちゃ喜んでやっていました。
しんどいと思ったことはまったくありません。眠たいっていうのはありますけど、しんどいということはない。
そうやってやってますと、2台、3台、5台、10台……どんどん増えていきました、台数が。
お客様の言うことを二つ返事で受けつづけようと。
弟を入れて、その友だち、若いメンバーが増えていきました。
その頃、私たちの信条は「一心不乱に一生懸命」。
とにかくお客様の言うことを二つ返事で、特に急な依頼は「困ってはる。お金じゃない」ということで、
管理職もみんなドライバー上がりですから乗って配達するという、そんな姿勢でやってますと、
どんどん受注が増えていきました。
私、社長になる家系じゃないんですね。
7人兄弟の末が親父なもんですから、2代目の社長というのはおじさんなんですけど、そこに娘婿が二人入ってましたから、
その方々が継ぐって僕はずっと思ってて、僕はドライバーっていう。
でも、アニキと慕ってた方が急に失踪してしまいまして、また24のときに親父から呼ばれて、
「おまえが明日から所長や」と言われて、従業員さんに配車する教えられたこともない仕事で。
お客さんと話することもできへんのです。何を話したらいいかわからん。
で、従業員さんともどう接したらいいかわからないんですね。
年上の方もいらっしゃったけど、命令口調で、威圧的に「あれやれ」「これやれ」と言ってました。
で、「気に入らんかったら帰れ。俺が持って配達するから」って。そんなこと続けてると、もう何人もやめていきました。
めちゃくちゃやめましたね。
最後、女性ドライバーが「所長は『お客様第一』『お客様第一』って言いますけど、
本当に大事なのは従業員じゃないんでしょうか」って泣きながら言ってやめていったのが本当にまだ記憶に残ってます。
従業員は大事にしてる。大事にしてるからこそ「お客様第一」っていう思いでやっている。
だけど、その思いが伝わらない、どうしていいかわからない。
そんなときに阪神淡路大震災が起こりまして、救援物資で水を配達するというお仕事をやりました。
不平・不満・愚痴を普段言ってるドライバーに「行ってくれ」って言ったら、「えーっ」って、
あんまりいい返事じゃなかったですね。
で、一昼夜かけて山越えして入って、帰ってきたら目の色が違うわけですよ。
「すぐまた行かせてくれ」って。
「いや、寝てへんからあかんよ。もう休め」
「いや、すぐ行かせてくれ」と。
まったく違うんですよ、顔色が。
「どうした?」って聞いたら、「公園で給水活動、ポリバケツに給水してるときに最後、
水がなくなるときに、おばさんに『兄ちゃん、今度いつ来てくれんの?』って悲壮な顔で言われて、
自分が暖かい布団に寝るわけにいかへん。
すぐ行かせてくれ」と。
そのときに、「人っていうのは、そういう使命感を感じると、自らが動きたくなるんだな」と。
人から言われて、上から言われてやるんじゃなくて、自ら内発的に動きたくなる。
その動機や使命感があるんだなと気づきました。
でも、それをどう伝えていったらいいかわからない。どのように組織に伝えればいいかわかりませんでした。
それから時がたって、10年前、会社の45周年に社長を交代させていただく機会をいただきました、4代目ということで。
創業者は「みんなで儲けた金は、みんなで分けよう」というのが口癖でした。
2代目のおじさんは作業服姿で、ライトバンで毎朝6時半に出社して従業員を送り出す、従業員を大切にする社長でした。
3代目の親父は、従業員の誕生日に明石の鯛を送ったり、パーティーには家族を呼んだり、
従業員と家族を大事にする社長でした。
で、私たち4代目、従業員も大事、家族も大切、地域社会のみなさんや未来を生きるこどもたちも大事にできるような、
そんな立派な会社にしていこうと幹部合宿をしまして、長期ビジョンを決めてスタートしました。
「チャレンジ300。70期、25年後にはこれぐらいの事業体にしよう」と。
それを俯瞰・逆算してマスタープランをつくってやっていくことを幹部で決めていったんですね。
その目標に向かってビジョンを語ってガンガンやっていくなかで、
数字の報告を毎月するんですけど、なかなか達成できない。
「こうやったらええやん」「ああやったらええやん」って言えば、半分かちょっとぐらい成功することもある。
で、これがうまくいけばいくほど、人の主体が消えていく。
「社長の言ったとおりやればいいんじゃないの」みたいな空気感や、「もう会議には行きたくないな」みたいな。
そんな声が聞こえてるとイライラしてiPadを放ったり、放ったiPadが紙に突き刺さったりとか。
で、「こんな会議しとってもあかん。現場行け!」とか言ってたんですね。
そうやってる最中、9年前の8月30日、私の携帯が鳴りました。
それは専務の福田からでした。
電話の内容はこういう内容でした。
「たった今、事故があった。うちのトラックとスクーターバイクが接触して、
スクーターバイクに乗っておられた43歳の男性が緊急搬送された」という内容です。
「わかった。じゃあ病院へすぐ行くわ」ということで向かいました。
向かう途中に鼓動が速くなっていきました。めちゃくちゃ不安だったんです。
トラックとスクーターバイクの接触、大変大きなケガをされてるんじゃないかな。
めちゃくちゃ不安になりました。
病院へ着きますと専務と担当の所長がいまして、私たちは合流しました。
案内されたのは霊安室でした。もう43歳の男性は息を引き取っておられた。
そのご遺体をご家族が取り囲まれている状態です。
私たちはその扉の外でずっと、その光景を眺めていました。
恐る恐る名刺を差し出して受け取っていただいたのが、ご遺族で取り囲まれてる中でいちばん年長の男性でした。
それはお父様だったんです。
お父様は私の名刺を握りしめて、たった一言、こうおっしゃいました。
「わざわざありがとう。私はどっちがええとか悪いとかわからへんけども、
たった今、自分の息子が命を落とした。
その息子には小学校4年生の女の子、孫がいたということだけはわかっといてくれな」と。
罵声を浴びせるとか罵倒するとかじゃなくて、やさしい口調でおっしゃったんです。
私は「誠心誠意尽くさせていただきます」……この声が届いたか届かなかったかわかりませんけども、
そうやってお辞儀をして、その場を離れました。
事故を起こした私たちの仲間は、彼も43歳、彼は男一人で娘二人を育てていました。
事故後拘束されますから、48時間は面会できないという状態です。
彼も43歳、まじめで、仲間のため、目標のため、お客様のために一生懸命働く管理職でした。
その日は車が集まらない、どうしても荷物をお届けしなくちゃいけない理由で、
自分で配達に行った矢先に起こしてしまった事故なんですね。
私たちはその子どもたちが心配で、そのまま彼の家へ行きました。
家へ着きますと一報を聞いたお母様が出迎えてくれまして、
お母様は私に「すいません、すいません、すいません」って、そうやって謝られるんです。
「いや、これは会社が起こした事故ですから、社長である私に責任があります。心配いりません。
また警察から出てきたら今までどおり元気に働いてもらいますから、心配いりませんよ」と。
お母様は「すいません、すいません、すいません」と。
私たちが車に乗って立ち去るまでずっとお辞儀をされてる光景が、
まだ脳裏に焼き付いてます。
車の中では沈黙がつづきました。
「また明日から誠心誠意尽くさせてもらおうや」……
そうやって仲間と別れて一人になると、眠れないんですね。
「もう幼い頃から大好きで仕方がないトラック。誰にも負けないぐらい好きなトラック。信じてる仕事、
世のため人のためになるような立派な会社にしていこう」と従業員の前で言ってるんですね。
にもかかわらず、人の命を奪ってしまう現実を目の当たりにしまして、
もう本当にどうしていいかわからなくなりました。逃げたい思いもありました。
悩み苦しんだ時に、人に救われました。
人の優しさに救われました。たくさんの経営者仲間、
従業員、たくさんの人とつながりがあります。人に救われたんです。
お手紙をいただいたり、メールをくださったり、ときには本を送っていただいたり、約束せずに会社に来て、
メッセージを自分の名刺に書いて置いて帰ってくださったり。
一人で考えていても道は開けないですけど、人のやさしさに触れる、人と対話する、悩みを共有する、
そのなかから見えてくる希望、光というものがある。
その中で、「トラックが本当に人を不幸にするんだったら、
世界中からトラックをなくしてしまったほうがいいんじゃないか」って、そこまで思い込んでしまった。
そんな時に、ある方が
「いや、でもトラック好きやろ?トラックをなくすって考え方よりも、生かすって考えたらどうだ」
ってアドバイスをしてくれました。
「そうや」と。
これが僕の心臓に突き刺さりまして。
亡くなられた命というのはもう戻りません。尊いんですけども、しかし、「生かされてる私たちの命はあるんだ。
その命を生かし合うほうがもっと大事じゃないか。なくすより生かそう」と、そう思いを変えたんです。
その思いを変えた瞬間に、そこから見たり聞いたりするものがすべて変わっていきました。すべて。
ある方から「大阪の工場で安全標語を掲げてあるよ」って聞きました。
当たり前やろと思ったんですけども、「いや、それは宮田君違うよ。その安全標語は、
そこに勤めてる従業員さんのこどもたちが一生懸命書いたものなんだ」と聞きました。
「あ、そうか」と。「いったん停止しましょう」「時速5キロ以内で」「今日もご安全に」……
これをこどもたちが一生懸命書いたんだと。
「ああ、同じことを表現してあっても、こどもたちが書いたものは、なんか心に届くわ」
と、そう感じたんですね。
「よし、自社もまねしよう」と。
でも、交通事故は、1社だけよくなってもなくなりません。
社会がよくならないといけない。そう思ったときに、子どもたちの絵やメッセージを、
運転士が大事に誕生日に書いてもらった「パパありがとう」とか「いつもがんばってね」っていう、
こんな走り書きのやつを大事に財布のなかに持ってたり、ダッシュボードに飾ってあるんです。
「これや」と。「これは社会がよくならないといけない」と。
そう思ったときに、その運転席や会社の中にこどもたちのメッセージをとどめるんじゃなくて、
社会へ出そうと思いまして、そのまま、その絵やメッセージをトラックの背面にラッピングするアイデアを思いつきました。
これが7年前、私どものトラック1台から始めたことです。第1号のトラックに書いたこどもは去年の4月、
うちに入ってきてくれました。従業員の子供です。
今、親子で働いてるのは、その親子も含めて15組おります。
仕事の内容は変わらないんです。
365日・24時間、自由にやらせていただいているお仕事の内容はまったく変わらない。
でも、たった1枚のこどもたちのメッセージで変わります。まるっきり変わります。
絵が描かれたトラックは、いつもピカピカです。みんな雨でも洗ってます。
走り方、やさしい運転になりますよ、言わなくても。
交差点で止まってると、このトラックを見たおばあさんが手を合わせたり、サービスエリアで駐まってると、
若い人たちに「写真撮っていいですか」って声をかけられたり。
高速道路で満面の笑みでご夫婦が運転席に向かって手を振ってくださったり、
お客さんのところに行って「あ~いいね、これ」
って、「うちのぼうずが書いたんです」って。
煽られない。まったく煽られません。
お手紙もいただきます。
「今日、私、仕事で嫌なことがありました。
帰り際、御社のトラックを見て大変心が穏やかになりました。頑張ってください」と。
仕事の内容は変わってないですけど、
「走ってるだけで自分たちが人の役に立ってるんだ。世の中のためになってるんだ」
という自覚、感じることができたら、これはまったく変わりますね。
仕事の内容、働き方も変わる、生き方も変わります。そんなものに、こどもたちのメッセージはなってます。
それを見るまわりの人たちの心も変わってますね。
1台から始めましたけども、このプロジェクトに参画いただいてますのは235社・745台ですかね。
これ、自分のこどもではなくて、地域の幼稚園とか小学校、そこから絵を募集してラッピングする。
納車式には子どもたちがいっぱい来て、地域の警察署長さんも来て、従業員がトラックの納車のときにパチパチパチパチ。
今までも運送会社の大切なトラックですけど、納車のときに社内の人間がカメラを持って出ていくのはありませんでした。
それが、事務のスタッフのみなさんも出てくる。
それだけで社内の気持ちは変わりますね。温かくなりますよね。
トラックの営業マンは泣きますよ。
「25年、営業をやってましたけど、中小企業の運送会社の社長に値段叩かれて叩かれて、納車のときには『そこ置いとけ』
って、見向きもされへんかったけど、このトラックはみんなに喜んでもらって、本当にうれしいです」って言うんです。
たった1枚のラッピングがですよ、それで人の心が変わっていく。
これに乗るドライバーの心もそうやけども、社内の空気も変わりまして、地域とのつながりも変わってきますね。
さらに子どもたちにとっては、自分の絵が世の中で走るって、めちゃくちゃうれしいじゃないですか。
自己肯定感が高まってくると思うんです。
今は、トラックだけじゃありません。介護施設、デイサービスの送迎車、ご利用者さんのお孫さんが
「今日もがんばって」って、おじいちゃんに向かって書いてくれたり、東京のタクシー、バス、いろんなのがありますね。
福島第一原発廃炉に向けて、懸命に命がけでやってる現場の車両にも貼っていただいてますね。
煙突を撤去するのにロボットでやってますから、そのロボットを遠隔操作するバスを改造して、フルラッピングしてますね。
第一原発の中です。
こどもたちの思いをみんな背負って、私たちがこどもたちに、大切なこどもたちの未来に残す今をつくるメッセージを。
工事現場のフェンスとか、工場の壁面にも描いています。
自動販売機にも描いてます。日本の自動販売機、企業のアピールはもういいんじゃないでしょうかと。
そんなことをアピールするよりも、1台1台がこどもの描くキャンバスになれば、交通事故はもちろん、
やさしい街になって安全になるんじゃないでしょうかと。
日本全国の自動販売機をこういう感じにしませんかという、コカ・コーラさんとコラボしたりしています。
もう、いろんなアイデアが無数に……。
例えば、従業員の控え室。
「何しなさい」「あれしたらあかん」とか貼り紙してたら、休憩室に来たらみんな不平・不満・
愚痴だのをものわんさか言ってる。
それを取っ払って、従業員のこどもたちが絵を描いて、メッセージを書いて、1か月に1回、ギャラリーとして取り外して。
ほんだら、その不平・不満・愚痴がなくなって、誰かがアメを持ってきたり、お菓子を持ってきたり、
そんな温かい空気になりました。
薬局の薬の袋。裏側に「おばあちゃん、はやくよくなってね」って。
おばあちゃんが袋をもらうときに涙するそうです。
薬飲んだあと、これ、捨てられないいうことで壁に貼ってる。なんでもできます。
僕たちは今のこどもたちと街づくりをしていこうという、そんな思いでやってます。
子どもたちの純粋な思いというのは、本当に人の心に届くなというふうに思ってます。
■経営のアップデートを実践したい経営者のための学び場「手放す経営アカデミア」
■手放す経営ラボラトリーでは、“ティール”“ホラクラシー”など進化型組織や最先端の経営スタイルを研究。また、組織を新しくアップデートしていきたいという企業の支援をしています。
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