先日、知人に誘われて承天寺という博多にある歴史あるお寺の座禅会に参加してきました。
私、座禅をするのは初めて。
お庭も紅葉も美しすぎました。
ちなみに、私は週に3日、10分間ヨガをした後、10分間瞑想するプログラムに参加しているので、日頃から瞑想の習慣があります。
しかし、これまで瞑想やマインドフルネスと座禅の違いについてもよくわかっていないままに参加してきました。
が、今回、瞑想とヨガの違いについても少し整理できたのでよかったです。
ちなみに・・・
仏教、禅、瞑想、座禅など奥深い世界なので、私の好き勝手な解釈だと怒られちゃうかもしれませんが、
私のようなちょっと触れてみたぐらいのレベルの人間の一次情報、ただの所感であるということが前提でご覧ください・・・。
承天寺の座禅会
当日、朝6時半に集合。
まず、座禅はどういうスタイルでどのようにするのかを住職から丁寧に教えていただきました。
その後、30分の座禅を2回、合計1時間の座禅を行いました。
ヨガの瞑想では、ヨガブロックをお尻の下に敷きます。あぐらになって目を閉じますが、
座禅では、座布団を1枚敷き、その上にもう1枚折りたたんだ座布団をひいてその折りたたんだ座布団の上にお尻を当てます。
そしてあぐら座になり、丹田の前で手を握って置く。
このスタイルで、鼻から吸って口から吐く。この呼吸を1呼吸につき30秒かけて行いましょう。呼吸をするごとに「一つ、二つ、三つ・・・」と数えましょう。このようなことを教えていただきました。
瞑想は数をかぞえないし、呼吸は鼻から吸って鼻から吐くなので、少しずつスタイルが違いますね。
そしてもう一つ違うと思ったのが、「目」です。
瞑想では基本的には目を閉じます。
ですが座禅では仏様と同じように半眼にします。頭はまっすぐに保ったまま、視点の角度を45度下に向けます。
すると半眼になります。
さて、スタイルが整うと、座禅が始まりました。
時間にして30分ずっと座禅をしていましたが、正直言って時間が何分経過しているのかは気になりませんでした。「長い」とも「早く終わって」とも何も思いませんでした。
30分経ったあと、あ、30分経ったんだ。という感覚。不思議でした。
毎朝のヨガ後の瞑想中、私は雑念ばかりが頭の中に浮かんでしまいます。
呼吸に集中しようとするのですが、すぐにその日の仕事の段取りなどを考え始めてしまったり、朝ご飯何食べようか?とか考えが次々に浮かんできます。
なかなか集中するのって難しいな〜と思っていたのですが、今回は違いました。
その要因は、やはりシンと静まり返ったお寺の中で座禅を組むという環境にあったと思います。
時間の感覚を忘れるくらい、ゾーンに入っていたように思います。すごく不思議な感覚でした。
しかし1回も雑念が浮かんでこなかったと言うわけではありません。もちろんこの後の予定だったり、今考えなくてもいいだろうっていうどうでもいいことが何度か浮かんできたりと、相変わらず思考は忙しかったのですが、それでも何度か長い時間「無」になっていました。
今回の経験は私にとって素晴らしい体験となりました。
必ずまた伺おうと思います。
座禅後の茶話会
座禅が終わった後のお茶会がまたとても良い時間でした。
毎回テーマがあって、そのテーマに基づいて調べてきたことや自分の所感などを参加者が意見を言う時間があるようなのですが、今回のテーマは「夢」でした。
「夢」は目標だったり、夜寝ている時にみる夢。大きくはその2つが思い浮かぶ方が多いのではないでしょうか?
しかし禅的に言うと夢と言うのは儚さを表す言葉だそうです。
禅の思想では、私たちが生きるこの世界も眠ってみる夢のように儚いものであり、世の中の全ての物は実態のない仮の姿で、何一つとして同じ状態で続くものはなく、常に移り変わっていくものであるという諸行無常の思想があります。
今見ている花や景色も、一瞬のうちに姿が変わってしまうように、この世で起こる全てのことは、変わりゆく過程の一瞬でしかなく、夢幻のようで、泡のようで、影のようである。
その仮の姿でしかない一瞬を、私たちは永遠であるかのように思い込んでは執着し、悩み、迷い、悲しみ、不安にかられています。
こういった状態から抜け出すためにも、禅の教えでは、この世の全てを夢と知れ。と言われています。
常に変っていき、完成することのない仮の世界で生活をしていることを私たちは知らなければなりません。
だからこそ、そんな儚い一瞬一瞬を大切に生きていく必要があるのです。
要するに、人生は、安定することなく、常に流れていく、儚いものだ。だからこそ今ここを感じる味わいきる。ただ、それだけ。
人生こそ夢。
そんな思想だそうです。
あらゆる執着が人を苦しめるわけですが、執着しないことと諦めることもまた違うと思いますし、私はこの「禅」の思想に好感を持ちました。
執着が人を苦しめる
あらゆることに結果が出ます。
目標を達成できた、できなかった。受験に落ちた、受かった。彼氏に振られた。
結果がどうだったとしても、ただそれを受け入れる。そうありたいな。と思いました。
ありとあらゆる執着を手放すことが生きやすくなる術だろうな〜と改めて思いました。
何に執着しているのか?を知るには感情の動きを注意深く観察することだと思っています。
モヤモヤしたり、怒りの感情だったり。
こういったネガティブな感情の裏には、その感情が生まれた理由の先に「執着」が隠れていることが多いように思います。
だから、ネガティブな感情を抱いた時にはチャンスです。
※ちなみに手放すラボではネガティブな感情を抱いたら、「ナイス葛藤!」と呼びかけることにしています。
自分の思考を探り、何に自分は執着しているのかを知ることができます。
ってそんなに冷静な人はなかなかいないでしょうけど・・・
手放す経営では、その執着の一つが「コントロール願望」だと考え、「管理を手放す」を謳っています。
なんだか、禅の思想に近いな〜と思い、住職のお話がビシバシ心に響きました。
座禅と瞑想の違い
ちなみに、座禅と瞑想の違いをわかりやすく解説しているブログがあったので引用。
座禅と瞑想の違いは「目的」
瞑想は脳がほぐれ、疲れも不安もなく穏やかな気持ちになることが目的です。
それに対し、座禅は何もありません。言うなれば座禅を行うことが座禅の目的です。
目的がない、目的を設定してはならないのが座禅なのです。
ランニングを例にしてみましょう。瞑想やマインドフルネスが「痩せたいから走る」というように目的を持つものだとすると、坐禅は「ただ走る」。その結果、痩せたり、健康になったりするというイメージです。
決してどちらの方が良くてどちらの方が悪いのかではなく、自分に合っているのはどちらなのかが大事になってきます。それは実際にやって経験してみなければわかりません。
目的があるのが瞑想、目的がなく、ただ座禅をすることが目的なのが座禅。
私のライフスタイル。週に3日、朝からヨガをして、瞑想をして、ジョギング5キロしている。読書も大好き。
なんていうと、どこ目指してるの??
って言われることもよくあるのですが、どこも目指してない。というのが私の答えなのです。
ただやりたい。ヨガも痩せたいから。とかではないんです。
ただ、ヨガをしたい。本読みたい。ジョギングについては、朝日を感じたい。という欲求はありますが、目標ではありません。
ま、ヨガやジョギングを初めた時のきっかけは目標があったと思います。「痩せたい」とか「健康のため」とか。
だけど、続けていくうちに「ただそれがやりたい」この境地に至ってるんですよね。読書に至っては物心つく頃には好きだったので、それこそただ読みたい。なんだと思います。
それが、「今ココ」を生きることにつながるんじゃないかな。とぼんやり考えていました。
結局は、ただやりたいからやっていることしか継続できないんじゃないかな〜って思っています。
最後に・・・
こんなこと書いて誰の参考にもならないと思いますが、自分の思考整理のためにアウトプットしてみました。笑