こんにちは!手放す経営ラボラトリー所長の坂東です。
本日のゲストは、株式上場を目前にして側近の裏切りにあい、一時期は社員数2名にまで減ったという波乱万丈な人生を経験された福岡在住のMさんにお越しいただいています(笑)
今日は顔出しをしないかわりに、思うぞんぶん赤裸々にその経験をお話しください!
包み隠さず語ります!
まずはMさんの自己紹介を簡単にお願いします。
25才の時にシステム会社を立ち上げました。見えないかもしれないけど、僕はその当時、業界で1〜2位を争うスゴ腕の技術者でした。
25歳でシステム会社を立ち上げる
Mさんが25才というと、インターネットがこの世に認知され始めた頃ですね。すごく初期のほう。
そうです。誰よりもインターネットの基盤構造や最新プログラミング言語に精通していました。当時、その業界の人なら誰もが読んでいた某有名雑誌のスタープログラマー年鑑にも、もちろん僕の名前が載っていましたよ。
その若さで会社を立ち上げるなんて、すごい決断力ですね。
鼻っ柱が強かったから、下請けの仕事をやりたくなかったんです。自分ところでなにかを作って出すという形の仕事がしたかった。だから会社を立ち上げました。
経営はどうでしたか?
全く楽じゃなかった(笑)当時、この業界で一番ラクして儲ける方法は、実は下請けだったんです。
でもその逆をやっていたから、全然ラクにならない。
そうそう。いつも正月に「今年はビッグになるぞ!」って決起会をやるんだけど、全然ビッグにならない(笑)
転機はいつやってきたんですか?
30くらいの時に東京に行くんですよ。「経営者の話がわかる技術顧問が欲しい」と東京の会社3社から頼まれて。
福岡の仕事もありましたよね。どうしたんですか?
一週間交代で東京と福岡を往復しました。その生活が1年間続きました。
大変でしたね。
たしかに大変だったんだけど、その中で一つすごい学びがあって。ビジネスって要はビジネス“モデル”なんだ!ってことに気が付いたんです。
というと?
東京で、たくさんのITベンチャーの社長や技術者と会ったけど、正直言って彼らの持ってる技術はたいしたことがなかったんです。僕と彼らの違いは、ビジネスモデルがあるかないかなんだ、と。
彼らにはビジネスモデルがあった。
そうそう。むしろ、ビジネスモデルだけがあったとも言えます。ビジネスモデルがあると技術がたいしたことがなくても、投資家から金がボンボコ入る。大手からも仕事がバンバンくるわけです。
しかも、その頃はまさにITバブル時代。
たしかにそういう時代背景もありました。でも、わかったんだ。とにかく「私たちがコレコレをやります」っていうビジネスモデルを表現して広める。このスキームこそが大事だったんだってことがね。
それでどうしたんですか?
うちは技術力もあるし、仕事もできるし、営業力もあったから、モデルを作ることに専念しました。で、ひらめいたんです。
最強のビジネスモデルを発見。業界ナンバー1シェアに!
上場のきっかけを作ったあのビジネスですね!
いろいろ観察していたら、気が付いたんです。精神病院のカルテこそ電子化が必要なのに、そこはほぼブルーオーシャンだった。これだ!ってね(笑)
大手も参入していなかった?
もちろん、大手は一般病院の電子カルテシステムは作っていたけれど、精神科病院のカルテはちょっと特殊でね。一般病院の電子カルテを流用しようとしても、全然動かないんです。だから、僕が1から作ろうって決めたんです。
そして大手を抑えてシェアナンバーワンになったわけですね。
うちのシステムは業界で一番値段が高かったんだけど、それに対抗して値段を安くした大手が負けていました。圧倒的な技術とビジネスモデルがあったから、価格に関係なく、うちが選ばれていたんです。
最高でシェアは?
6割を超えていました。
ビジネスは絶好調になりましたが、組織に関する悩みはどうでしたか?
組織に対する悩み・・・はっきり言って失敗だらけ!(笑)
ビジネスモデルにおいては全くブレがないわけですよ。でも、組織づくりは全く別モノでした。
ビジネスモデルを成功させるのと、組織作りを成功させるのは別だったんですか?
僕の場合は別でした。僕は自分の会社の仕事を、全部自分でできたんです。だから、全てに対して僕が関わっていた。でも、ホントはそれじゃまずい。
社内クーデターが勃発。売上も激減。
具体的な失敗談を聞いてもいいですか?
10年くらい前のことなんだけど・・・その当時のナンバー2とナンバー3がクーデターを起こしたんです。
なんでそんなことが起こったんですか?
当時、僕はこのシステムを売るために、ずっと外に出ていたんです。だから中の技術は、一番信頼していたナンバー2に任せていたんです。
ナンバー2って裏切った人ですよね?どんな人だったんですか?
実は彼、4歳の頃からの幼なじみだったんです。僕と同い年だけど、弟みたいな感じでね。すごく信頼していました。
幼なじみに裏切られるとは・・・辛いですね。
僕はどちらかというと0→1の人間で、外に集中しているときは社内のことは考えないタイプで・・・外を6割やって中を4割やる、みたいことができない。だから完全にそのナンバー2に頼っていたんです。依存していたともいうのかな。
クーデターって具体的にどんなことがあったんですか?
ナンバー2とナンバー3がそろって離反して、新しい会社をつくったのです。
離反組が同じビジネスで新しい会社を立ち上げた?
そうそう。電子カルテのシステムって、作るのに1年くらいはかかるし、少なく見積もっても1億円はいるんです。前もってクーデターを手引きした人がいたんだと思います。
社内はどんなふうに?
そりゃガタガタ!僕は全く社員と関わってなかったの。ホントに全部任せてたから。社員と飲んだこともなかったんです。
社員と飲んだことがない?!
上司と飲みに行くのって、個人的に昔から好きじゃなかったから。せっかく帰れるのに社長と飲みに行くのって、部下がかわいそうって思っていたんです。
それでどうなったんですか?
35人くらいいた社員が2人まで減りました。あとは全部入れ替わりました。
当時の気持ちを覚えていますか?
「人間不信」しかなかったですね(笑)なんていうか、人の目を見たくないわけ。でもね、そんな僕を助けてくれた人達もいてね。その人達に言われたことがあって・・・
なんて言われたんですか?
「ちゃんと社員の前で話をして」って。
自分たちと向き合ってほしいというメッセージですね。
当時の僕はホントひどい奴で。「中小企業に中途採用で来るような馬鹿は、俺の言うこと聞いとけ」って内心思ってたわけ(笑)
そういうのが透けて見えてたんでしょうね。
おそらく。このままじゃダメだと思って、毎日社員と飲みました。肝臓を壊すんじゃないかと思ったくらい毎日。
これまで避けてきたことに“挑戦”したんですね(笑)
はっきり言って、電子カルテの営業で病院の理事長と話す時の方が、社員と飲む時より心穏やかでした(笑)
社員がたった2人に。そこでわかった組織にとって必要なこと。
組織に目が向いたんですね。
向きましたね。社員が笑ってくれたら、それでいいと思うようになりました(笑)それからは社員全員にバースデーカードも必ず書いて、プレゼントも渡してた。
劇的変化ですね。
ほかにも「社長ラジオ」っていうのを始めて、社員向けに声のメッセージを送ったり、ビデオを撮ったり。「君たちの仕事とやりがいは僕が確保する。信じられなくてもいい。自分たちで判断してほしい」っていうメッセージを、ありとあらゆる場面で伝えるようにしました。
その頃、SNSにもずいぶんたくさん投稿してましたよね?
うんうん。相当発信していました。fecebookとかで自分の行動をね。社員たちに伝えないとブランディングにならないと思ったんです。
僕もよく見てました。札幌のお気に入りのラーメン店でランチしてる写真とか(笑)
でもここだけの話、ラーメンの写真はあげてたけど、高級フレンチの写真はあげてない(笑)
その後、どうだったんですか?
クーデターの翌年の売り上げは6億円の予定だったんだけど、2.5億円しかいかなくて。やっぱりとても大変でした。
よく持ちこたえましたね。
たとえ社員が2人まで減ったとしても、販売は僕が一人で全部握っていたからね。ビジネスモデルがしっかりしていたから乗り越えられました。
すごいですね。仮に造反した人たちが同じものを作れても、売ることができないわけですね。
そういうことです。
ここまで十分に波乱万丈なMさんですが、このあとさらにすごい事件が起こりますね。
はい、会社を追い出されました(笑)